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zoom RSS 感想 映画「聲の形」

<<   作成日時 : 2016/09/19 09:03  

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原作はよまないまま観てきて、これはすごいものを観てしまった、と思いながら帰宅して早々にヒロインの描写について批判を読んでしまったので(またもっともな批判だとも思ったので)、しばしうんうん考えこむ。
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すでに大反響の原作であるので、ネタバレとかは気にしなくていいと思うので、どんどん思いつくまま書いていく。
そもそも、ヒロイン肖子が、主人公である石田に恋愛感情を抱くようになる過程というのが、まるで描写されていない。弓絃が石田と交流を深めているあいだに、突然、恋愛感情を持つに至っている(というか、おそらくは、再会した時点で、まだ自覚はないが、恋愛感情を抱いていた、という話なのだとおもうが)。と、いうこともあって、それまでの背景事情を無視したとしても、その部分は非常に唐突な印象であったから、小学生時代のいじめを考えると、なおさら、なんでそんな話になるのか?というのは理解しがたいというのは、鑑賞中にも気になった部分だった。
ただ、鑑賞中は結絃が寧ろ後押しをしていくので、実際、肖子は恋愛感情をもっているし、端から見て、後押しをして変ではない、という話だったのだろうと納得してみることにした訳である。
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なので、イジメも差別も容認する、いじめた側に都合のいいヒロインであり、ひいては作品自体がそういう判断を是としているということだという批判について、弁明しようにも、弁明の余地というかとっかかりすらないのは事実で、つまりこの点については間違いなく、素直に批判されて仕方がないし、真っ先にそこの部分についてもっと気にしなかったことについて、受け手として鈍感すぎたことも反省した次第である。
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この作品は、あくまで主人公の石田の物語であることが貫かれていると思うのだが、結果、ヒロインの心情が、おそらく意図的にはっきりしないように描かれている(主人公が当惑するのみである)ことも、ヒロインが加害者にとって都合のよい存在となってしまっていることを助長している訳なので、そういう意味でも批判について応えることのできない作品ではあろう。
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さて、批判は批判として受け止めて、今後も考えるとして、僕自身が鑑賞中におおいに心を鷲掴みされたのも事実なので、そこら辺はそこら辺で書いておきたい。
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この映画は、主人公の罪と罰と贖罪の話で、なかでも贖罪とはなんぞや?という部分を中心に僕は鑑賞していたようにおもう。
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罪の部分は包み隠さずに描写されていて、自分がイジメのターゲットになるまで、そもそも罪悪感があるように描かれていない。初めて自分がやったことを顧みるのも、母子家庭で経済的に苦しいなか、母親が弁済を迫られることになることに思い至ったからであって、ヒロインへの仕打ちを反省したのではないあたりまで徹底していて、一切、主人公の行動に同情できない。
また、周囲の人間についてもイジメを見て見ぬふりをしたあげくに、親から訴えられると主犯格主人公をスケープゴートにすべく怒声をあげて追い込む担任教師を筆頭にだれひとり救いにならない。好きになれない。
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罰については因果応報、一転して主人公がその後延々とイジメを受け続ける、という形でえがかれている。スケープゴートとなった主人公への周囲の人間の保身の目的でのイジメが行われているのだから、間違っても公正な罰ではないのだが、実際にいじめていた側におこることとしては説得力があるし、起点が自らのイジメにあることがはっきりしているために、主人公は自己批判をくりかえすに至る契機としては自然にかんじられる。ついに自分には生きている価値がないと自殺を決意し、未遂にいたることで、観ている側としては一定の禊ぎが済んだものと感じられる部分でもある。
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とはいえ、罰がこういう形であってよいのか?ということにはもちろん戸惑いは残るのだが、一方で、実際の刑事罰は本当に公正な罰として成立しているのか?ということについては、量刑の公平性の根拠ともども常々疑問に思っているところであるので、全面的に否定しづらいことも、あらためて感じた部分である。
あるいは、この、罰の期間をへて、主人公は贖罪を意識することになるところで、罰を受け、一般的な用法としては「罪を償った」とされる状況の後に、贖罪が始まるところに、罰が教育としてしか成り立ち得ないことが裏返しとして描かれているようにも感じる。
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僕自身が自分が叩けばホコリがでる身であるという認識であって、そういった自分とほんとうに対峙しているのだろうかとは、かねて思ってはいたのである。とはいえ、最近はそういった自己への否定的な感情をめったに抱くこともなくなっていたので、贖罪を思いつく主人公というものは自分の誤魔化しを指摘されているようで、ナガツカくんや弓絃がいなかったら、観ていることはいっそう苦痛だっただろう。あるいは作者も描き進めるにあたって、彼、彼女は必要だったにちがいない。
とはいえ、彼、彼女もまた、善人とは言い切れないのだが。
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脱線するが、そういう意味では、ヒロインの祖母はあまりに理想的に過ぎる描かれ方で困ったのだが、ヒロインの母親を育てたのも彼女のようであり、彼女もまた、なにがしか問題を抱えている人間だったことは、間違いなかろうとは思う。
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さて、贖罪といいながら、なんとなく主人公が赦されていく展開になっていくのだが、寧ろこここそがこの映画を熱心に観てしまったポイントである。
僕は人が罪の贖いに心情として正面から向き合うことは根本的には無理であると思ってきた。ゆえに、制度として強制的に賠償や服役という形で贖罪を規定する現在のありかたを肯定しているのだが、他方、で、罪を償ったはずのものたちがしかし、社会に出てからもずっと犯罪者として扱われること、逆に、罰を受けたものの多くが結局は反省してはいないことなども伝聞しており、解決がなされていない認識も持ってきた。
この映画では(というか、同様のテーマの作品は最初から避けてきただけかもしれないが)、贖罪が心情として他人と正面から向き合うことでしかなされ得ないこととして描かれている。つまりは、贖罪とは、罪人がなになすかというよりは周囲が罪人を受け入れることであるという描写でもある。
アニメーションのちからもあろうが、受容という行程について思い巡らせられたことで、僕としては目が離せなくなったわけである。
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映画は最終的には、主人公とヒロインが加害者と被害者の立場を交換することになる事件によって、直接の加害者と被害者の葛藤を強制終了させる荒技によって、周囲の人間が主人公を受容したくなることに違和感を持たせない工夫を凝らしてしまうので、ややズルいなと思わないでもなかったが、現実問題としてはこんなにキレイにまとまることがない以上、お話を終わらせることができないからここは仕方がないかと考えて、劇場をあとにしたわけである。
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主人公は救われてよかったのか?という視点はあろうし、僕もそういう気持ちはあるのだが、では、贖罪は不可能であるという結論になってしまってもいいのか?ということでもある。もちろん、ここですぐに結論は出ないけれども、二時間の映画としては充分に問題提起を感じることができたと考えている。
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さて、で、贖罪の受容としてかんがえたときに(凶悪犯罪の服役囚と結婚するはなしなどはまたはなしが違ってきてしまうのだろうがそんなことも思い浮かんでしまって)、ヒロインが主人公に恋愛感情を抱くイベントの位置づけがまた難しくなってしまうのである。恋愛感情が葛藤に先立って存在するのだから、受容のはなしにとっては邪魔になってしまう。
先験的な恋愛感情でも設定してあげなければ週刊連載漫画としては読んでる方が耐えきれないということも考えたりはするが、やはり、作劇上の都合に終始してしまうかなあ。
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さて、おはなしとしてはここまでにして、アニメーション映画としてなんだが、ライブアクションから逃げることができないたぐいの作品であり、京都アニメーションであるからつくれた映画かなとは思った。いや、例えばシャフト/新房作品であればべつのアプローチがあったであろうことは想像に難くないけれども。
で、そういったライブアクションの積み重ねの作品であってもアニメーション映画として作る方が適切である場合もあるのだな、という気持ちである。まあ、また、実写映画版もつくられるのかもしれないが、実写版であれば大幅に改編を迫られるように、直感的には感じる。
§
おしまい。

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